私たちの生活の中で、最も大きな課題になってしまいがちな人間関係。どうして人と人との間に悩みや争いが起こってしまうのでしょう。

バガヴァット・ギータ2章でクリシュナは愛憎に対して説明しています。(BG2-62,63)

人が人に愛着を抱くと...
⇒相手に対する執着が生まれる(A君の事大好き、私幸せ。一緒にいたい。)

⇒執着から欲望が生まれる

(だからA君も私のことをもっと愛してほしい。)

⇒欲望から怒りが生まれる

(これだけ彼の事を思っているのに、彼は何にも私のことを考えていない。許せない。)

⇒怒りから妄想が生まれる

(私に気のあるふりをして、利用しようとしたのね。私を騙そうとしていたに違いない。)

⇒瞑想から記憶の混乱が生まれる

(思い出した!今思うと、あの時もあの時も、私を馬鹿にしていた。)

⇒記憶の混乱から知性の崩壊が生まれる

(最初から私のことを陥れようとしていたに違いない。どいつもこいつもグルになって)

⇒知性の崩壊から人は破滅に向かう

(私の一生を台無しにされた。殺してしまえ!!)

ちょっと例が極端ですが、それくらい愛着から生まれる感情をコントロールすることは難しく、それは私たちの人生を狂わすほどの力があります。

ヨガスートラでは、5つの煩悩の一つとして貪愛(ラーガ)があげられています。

「ラーガとは快楽に捕らわれた感情である」(PYS2-7)

つまり、対象に対しての過去の記憶に物惜しみをする感情で、ギーターの説明と同じように執着を指しています。

ヨガの哲学において、「愛」を否定しているのではありません。しかし、特定の相手に対する「執着」が破滅の原因になると書かれています。執着とは「自分の」という解釈でもあります。例えば、とても貧しく今日は一日でパン一個だけしか買えず、目の前に自分の子供と他人の子供がいたら...間違えなく自分の子供にパンをあげますよね。当然!!

なぜならば「私の」子供だから。

しかし、どれだけ自分の子供がお腹を空かせていても、目の前の子供たち皆に平等にパンを分け与えるのが博愛だと言います。そんなこと絶対出来ない!!だって、自分の子供だから!と言いたくなりますが、そのような博愛=平等愛を貫いたのがマザーテレサ。

彼女に限らずインドでは、どんなものでも皆で分ける文化が今でも根強く残っています。

こんなことを初めて学んだとき、確かにマザーテレサは私には到底到達できない聖者だし、憧れるけれど。特定の人を愛せない人生なんて!家族さえも他人と平等なんて!心のない冷たい人のよう。と、真っ先に思ってしまいました。みなさんはどうなのでしょう?

私はなかなか受け入れれなかったのですが、繰り返しギーター読んでいるうちに、一気に頂点を見るのではなくて、少しずつ日常に取り入れていくのが良いのかな、と思うようになりました。まずは「自分の」という意識を減らしていくこと。私の子供、私の両親、私の恋人、みんな「私の」だからこそ、私が良いと思う事をして欲しい。自分では相手のためと思っていることが、実は自分の欲望ではありませんか?または、「自分の」私。自分に執着して、自分の理想の姿を押し付けて、自分自身を苦しめていませんか?

一気に自分と他人を平等に見る境地に達する必要はありませんが、もしも今苦しんでいるのならば、他人に対しても、自分に対しても、執着を弱めてみる。つまり、「こうして欲しい」という欲望を薄めてみるだけで、一気に心が平和になるかもしれませんよ。

そんなに必死に執着しなくても大丈夫。いったん心が落ち着けば、あなたも周りの人も自然なままで美しいのだから。そんなことを愛の神様クリシュナは教えてくれていると思いますが、いかがでしょうか?

Hari Om….

この記事を執筆した先生

プロフィールYUKA

yuka先生 (ヨガ講師・バンスリ奏者)

ブログURL
http://s.ameblo.jp/aiiro-beniiro/

インドを拠点にヨガとインド古典音楽の勉強を続けています。様々な形でアシュタンガヨガ、ハタヨガの指導。
・Tattvaa Yoga Shala-Ashtangayoga Teacher training 500hrs. (RYT500 取得)
・International Bansuri Academy 在学中